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History of CHIYOTETSU
千代鉄の歴史

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To the next 100 years
千代鉄は今、次の百年へ。

​千代鉄グループは、2017年5月12日に創立100周年を迎えました。

当社の設立された1917年(大正6年)、千代丘は神崎の外港都市として発展を始めたところでした。

千代丘電気軌道(現:千代丘鉄道)は、都市間輸送を始めに、時代と共に他私鉄を吸収・合併を重ね、路線延伸、宅地開発、需要の創造、会社体制の再編、ホールディングス化など常に進化を遂げてきました。

100年の歴史の中で、当社は鉄道の運行は勿論、沿線地域への積極的な開発、暮らしをサポートする包括的なサービスの提供を行い、沿線価値の創造にも取り組んで参りました。

そして、これからは次の100年へ向けて。

千代鉄はこれまでの100年を礎に、次の100年を歩みます。

​皆様と共に。

History of Chiyotetsu 1917-2025

1900‘s

     ・・・千州に花開く鉄道文化。

     ・・・各地で興る鉄の道。

     ・・・成長する千州と鉄道。

     ・・・自動車の台頭と千代鉄。

     ・・・統合、そして戦争へ。

     ・・・戦争の終結、運転再開の時。

     ・・・経営難への取り組み。

     ・・・行先は未来へ。

     ・・・充実する路線網。

     ・・・なおも増加する需要。

     ・・・澪票を辿れば。

     ・・・速さの時代、新たな千代鉄へ。

     ・・・最後のピースを埋めるとき。

     ・・・サービス強化へ。

2000‘s

     ・・・新しい標準。

     ・・・新たな事業体制へ。

     ・・・時代に寄り添う。

     ・・・Through service

     ・・・永信急行の終焉

     ・・・New generation

Founding period
創業期 

​※創業以前の社会動向等は記載しておりません。社史の全貌は「千代丘鉄道会社要覧」からご確認ください。

1917

   千州に花開く鉄道文化。

第一次世界大戦の影響を受け、1915年後半から好況に転じた日本経済の中、千州地方の千代丘・神崎の両都市でも路面電車が開業し都市の発展が始まりました。

それと同時に両都市間の移動需要も高まり、鉄道による貨客輸送を求める声が多く挙げられました。

 

この日本の好景気と両都市間の移動需要の増大を受け、1917年(大正6年)の5月、千川博文の手によって千州地方初の鉄道会社、千代丘電気軌道株式会社が設立。

同年6月、千代丘~白雪間の免許を取得し、翌月の7月に工事を開始すると、同年12月1日に千代丘から神崎(現・神崎市)駅間において軌間1067mm、直流600V電源を用いた電車による旅客・貨物輸送を開始しました。

開業から1年後の1918年、社長の千川博文が急逝、新たな社長に千川浩二が就任すると、鉄道を基軸に様々な分野へ事業を展開し、諸産業の発展と共に財閥への資本の集中が進み、千川財閥の拡大が始まりました。

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千代丘電気軌道の開業を報じる地元紙

(1917年12月2日朝刊)

1919

  各地で興る鉄の道。

1917年5月、千代丘電気軌道が千代丘で興ると、それに続くように同年10月に澪ノ宮で秀島勇夫が代表を務める千州急行電鉄株式会社が、翌年1918年7月に音無で鷺山清正が代表を務める音無高速電気軌道株式会社がそれぞれ設立され、その後も様々な鉄道が設立されました。

1919年、千代丘電気軌道は千代丘~神崎間の輸送で延伸資金を貯めると、既に免許を取得していた白雪まで路線を延伸し、翌年の1920年12月には白雪まで開業。

白雪駅まで開業した同年12月10日、千代丘電気軌道から千代丘鉄道株式会社へ商号を変更し、千南の輸送を担う一大路線へと進化を遂げました。

First Growth period
第一次成長期 

​※創業以前の社会動向等は記載しておりません。社史の全貌は「千代丘鉄道会社要覧」からご確認ください。

1920

成長する千州と鉄道。

1920年、音無では音無高軌音武線(おんぶせん)の音無~千尋渡(現・北千尋駅)間が開業、1921年には千代鉄本線が音無方面へ延伸し、現在の千代鉄本線武岡駅までの路線が開業。1922年には千川財閥の融資を受け、音無高軌が音無川橋梁を落成させ武岡まで延伸し、千代鉄本線と接続しました。

1925年には、千代鉄が千州急行電鉄と結んだ契約の遂行のため、白雪駅から千歳へ千代鉄千歳川線が延伸され、並行する千歳軽便鉄道に代わって千歳~白雪の輸送の根幹となりました。

また1926年には、長大化する路線で起こる電圧降下への対策や、鉄道部品の共通化によるコスト削減を図るため、当時としては画期的な直流1200V昇圧電化工事を実施。

この昇圧以降、千代鉄本線は音武線と相互乗り入れを開始し、県内の交通アクセス向上につながりました。
 

その他にも、1927年に辻浜鉄道五十嵐~夕凪(現・夕凪が丘駅)間を買収し葵川・五十嵐方面への路線を確保。

 

1930年1月には千歳川~辻野落合(現・つばめ台)間の長大トンネル「辻雪隧道」が開通し、千州急行電鉄は千代丘鉄道に合併、千州急行線は千歳川線に編入され新たに千代鉄白雪本線に改称されると、千代鉄の路線の中で最初に全線開通を果たしました。

1929

自動車の台頭と千代鉄。

1920年(大正9年)からの大恐慌にもかかわらず、発展を続けてきた千代鉄でしたが、1929年(昭和4年)10月24日からの世界的な不況の前には、千代鉄もその影響は受けざるを得ませんでした。

この不況下においてさらに千代鉄に負担をかけたのは、自動車運輸業の急速な発達でした。

乗合自動車やタクシーが各都市で事業を展開し、千代丘鉄道の営業圏を侵食すると、千代鉄の営業成績は徐々に振るわなくなりました。

このような不況に直面した当社は、多角経営を進める一方、乗合自動車業への進出を通じて営業圏の拡大を図りました。

 

千代鉄沿線の各都市では既に自動車交通が路線を展開していたため、新規参入は無謀とし、千代鉄線と並行路線を持つ千神自動車、神崎市内の自動車交通で利益を上げる神崎乗合交通、日奈市内の鉄道並行路線を持つ日奈野交通の三社を買収しようと試みましたが、3社とも失敗に終わりました。

その後、買収に失敗した千代鉄は衰退するかと思われたが、1931年(昭和6年)4月公布、1933年(昭和8年)10月施行の自動車交通事業法によって、乗合自動車業の整理統合が進み、特に私鉄と競争関係にある乗合自動車業は、当該私鉄に統合または、私鉄側に優先的に免許を公布するように行政指導が行なわれたため、自動車業に参入できなかった千代鉄は生き残ることができました。

 

自動車交通への対抗策として千代鉄は、1937年に辻浜鉄道から引き継いだ路線計画「北東新線」の建設を開始し、1938年10月20日に北東新線(新葵川~辻野落合間)が開通。鷺沢線に改称の上、鷺沢を目指して延伸工事が進められました。

鷺沢線沿線では宅地化開発を進め、固定通勤需要を生み出すなど、安定的な開発が行われました。

During Wartime
戦争期 

​※創業以前の社会動向等は記載しておりません。社史の全貌は「千代丘鉄道会社要覧」からご確認ください。

1941

統合、そして戦争へ。

昭和16年(1941年)、国家総動員法に基づき1941年8月に配電統制令が施行されると、千州電力を始めとする一帯の電力事業者が千州配電株式会社に統合され、千代鉄は電力事業を失うこととなりました。

この電力業の統合は、兼業として電力供給業を経営していた当社に大きく影響を与えました。

このころの当社は、兼業であるはずの電力業収入が鉄道業収入を上回っており、電力供給業は収入の点で非常に重要なもので、それは音無高速電気軌道でも同じでした。

主力事業の一つが配電統制令よって崩れると、平時立法の陸上交通事業調整法や、戦時統制による国内陸上運輸事業の管理を目的に施行された陸運統制令に基づく形で、千州地方の鉄道・乗合自動車業界は統合への道を歩み始めました。

1941年に多数の乗合バス事業者を、1943年1月7日に風見電鉄を、1944年5月12日に音無高速電軌軌道をそれぞれ合併し、千代丘鉄道は澪岡県内の最大手私鉄となりました。

しかしこの頃から、資材調達難と労働力不足が深刻となり、当社線内でも設備を維持しきれず、運転速度の低下、列車本数の削減などを行い、資材の消費や労働力の節約に努めながら運輸営業を継続していました。

 

千代丘は港町から軍事都市へ変化し、鉄道は戦争を支えるものに姿を変えていったのでした。

Postwar days
戦後期 

​※創業以前の社会動向等は記載しておりません。社史の全貌は「千代丘鉄道会社要覧」からご確認ください。

1945

戦争の終結、運転再開の時。

太平洋戦争も終盤になると、主要都市は空襲を受けるようになりました。

当社でも市内旧本社や、駅が被災したほか、鉄道事業においても車両、施設が大きな被害を受けました。

戦争の終結後も国内では、極度のインフレーションと海外からの帰国者による人口の急激な増加、失業者数の増加と深刻な食糧不足など多くの問題が発生し、経済は混乱に陥っていました。

当社においても戦争の爪痕は深く、変電所や電車が被災し、終戦直後の当社の輸送力は著しく低下していましたが、それに対して旅客需要は、食糧の買い出しや遠隔地への通勤者などの影響を受け、異常なほどの増加傾向にありました。

また、前述の理由と合わせ、道路輸送の輸送力不足から急増した鉄道旅客需要への対応も重なる中、車両不足や電力設備など、戦後の千代鉄は輸送力増強が第一の課題となりました。

国鉄線とのつながりが希薄である千州地方では、澪岡県内の国鉄線と千代鉄線の線路規格が違ったり、国鉄側の車両も不足していたなどの理由から国鉄からの車両譲渡を受けられず、車両不足に陥りました。

そこで、かつての千川財閥を形成していた千川重工から直流電動機の供与を受け、1945年ごろから600型電車を製造し、戦後の混乱期を乗り切ろうとしました。

また、車両製造の裏で施設復旧もすすみ、安定輸送が開始されたのでした。

1947

経営難への取り組み。

戦後の異常な乗客増加も落ち着きを見せ始める一方で、戦後における千代鉄の経営は、相次ぐ賃金引上げにより人件費が高騰し、苦境に追込まれていました。

この結果、営業係数は戦前に対して悪化し、いったん悪化した営業成績は容易に好転せず、当社の経営難は続いたのでした。

こうしたなかで全国の大手私鉄は、百貨店業や遊園業、または既存事業の拡充などで経営の多角化に挑み、経営の改善に努めました。

この全国的な動きの中で当社は、主要駅への千代鉄百貨店の設置や、音無遊園駅(現・音無本町駅)に音無遊園(2002年閉園)を設置するなどの取り組みなどを行いました。

Second Growth period
第二次成長期 

​※創業以前の社会動向等は記載しておりません。社史の全貌は「千代丘鉄道会社要覧」からご確認ください。

1948

行先は未来へ。

1948年、米ソの対立が深まる中、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が成立。1950年に朝鮮戦争が勃発。

日本国内では、ドッジ・ラインの影響で安定恐慌が発生するなど、戦後復興中の当社にも厳しい状態でしたが、朝鮮戦争の勃発により、GHQによる占領政策が民主化から経済成長に切り替わり、復活した財閥と戦時特需の影響を受け経済成長が始まりました。

この経済成長に伴い国内の人口は都市部へ集中し、澪岡県内でも千南地域に人口が集中。

千代鉄は、千代丘、神崎、白雪、音無の各都市間を連絡する重要な役割を担っており、混雑の激化が進みました。

そのため、当社では混雑緩和が早急な課題とされ、600型電車の導入や優等種別の運行などを行い、混雑の緩和を図りました。

このような輸送力の抜本的な改革は、1955年以降第五次まで続く「輸送力増強計画」として継続され、1955年の第一次輸送力増強計画では、計画に基づき電車の速度向上や車両更新を行い、1958年に全線の使用電圧を1500Vまで引き上げました。

車両の面では、老朽化の進行などの理由から、一部の車両を廃車し、それに伴い不足した輸送力を補うための新型車両1000系の導入も同時に行われました。

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導入された1000系電車

(デザインマイナーチェンジ前)

1947

充実する路線網。

高度経済成長期真っ只中の1959年、千代鉄では増加する沿線人口や団地の造成により、第二次輸送力増強計画として既存路線の設備増強が各所で行われました。

特に千代鉄本線の日奈から武岡の区間では、重点的に工事が行われ、開業時から長らく単線であったこの区間は、当初より複線で建設する予定でしたが、資金が単線建設分のみしか用意できず、音無高速電軌軌道との連絡と千南地域の鉄道網構築を急いだ当時の社長によって1921(大正10)年に単線で開業しました。

以来、この区間は千代鉄本線で唯一単線のままでした。

 

当社は輸送力増強のため、列車編成の長大化、運転本数の増加、優等運転再開などの施策を実施していましたが、この単線区間のために、高頻度運転や優等運転を最も必要とする朝の混雑時に全列車を各駅停車にせざるを得なかったのでした。

そこで、第二次輸送力増強計画では、千代鉄本線を重点的に拡充。問題の日奈~武岡間では複線化が行われ(本線第二期線増強工事)、従来よりも頻度を上げた運転を可能としました。

この工事により、千代鉄本線は全線にわたって複線となりました。

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複線化された区間を走行する

501系電車

1963

充実する路線網。

かざみ野線を除く千代鉄各路線では全線が複線化されましたが、それでも尚慢性的な混雑や遅延に悩まされており、特に鷺沢線と白雪本線の線路が共用となっているつばめ台駅~鷺沢市間では慢性的な遅延が発生しており、改善は必須の状況になっていました。

そこで、1963年から第三次輸送力増強計画として、つばめ台から鷺沢市までの区間で方向別複々線を用いた新線建設が行われることになりました。

 

既存の鷺沢線・白雪線が走行する複線高架の横に新しい高架線を建設し、複々線とすることで工期と費用を抑えて建設を行うことができました。

またこの工事の陰で、かざみ野線も全駅に交換設備が設置されました。

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​複々線化工事が進む白雪本線つばめ台駅

1967

澪票を辿れば。

1967年に千代鉄は澪ノ宮・音無両市内へのアクセスの強化を目的に、第四次輸送力増強計画として「空港線高速鉄道建設計画」を発表しました。

路線計画は1972年に開港を控えた千州国際空港へのアクセス線建設を念頭に計画されており、空港への旅客需要を獲得することが目的でした。

空港線建設では音無駅から分岐し、鷺沢駅を経由して、千州国際空港へ至る路線として計画され、鷺沢駅では千代鉄初の路線同士の交差が行われました。

工事は順調に進み、1972年4月2日、千州国際空港の開港とともに運転を開始。

全線高架で建設され、1000系車両を用いた100km/h運転が行われました。

開業後、競合のバスに市内からのアクセスの利便性の面で旅客需要を奪われると、千代鉄は持ち前の路線の長さを生かし、千代丘などの県内各都市と空港との所要時間の短さをアピールするため、全線の高速化への道を歩み始めることとなりました。

1977

速さの時代、新たな千代鉄へ。

千州国際空港開港から5年後の1977年、空港アクセスや千代丘から各都市間連絡など、千代鉄の旅客需要は増加の一途をたどっていました。

また、各都市と千州国際空港へのアクセス高速化を目的に同年8月25日に6000系の導入が開始されると同時に、都市間を結ぶ最速手段として新たに最速達種別「特急」の運転が開始。

この6000系の導入により、本線の優等種別で長らく使用された旧型車両は優等種別から退き、所要時間が短縮した千代鉄は澪岡県内の移動のシェアを不動のものにしました。

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激化する混雑

1980

最後のピースを埋めるとき。

 1980年、当社は第五次輸送力増強計画として「第五次本線延伸計画」を発表し、音無から先の雫原市内の雫原駅まで延伸する事を発表しました。

工事は順調に進み、翌年の1981年12月5日、無事に千代鉄本線は全通。

そして、この12月5日が64年の歳月を経て全路線が全通した日となりました。

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全線開業のヘッドマークを掲げる6000系

1988

サービス強化へ。

1988年、これまで第一線で活躍してきた千代鉄の旧型車両郡は老朽化が進行し、新型車両の導入が早急な課題となりました。そこで当社は、新型車両の7000系を登場させ速度とサービスの二つを底上げしました。

この増備により、千代鉄本線と白雪本線で使用されてきた旧型車両は支線区に押し出される形で転属。

二つの本線は6000系、7000系の二種類で運転されることになり、運転速度の向上とともに県内の移動時間の短縮による思わぬ経済効果を発生させました。

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辻雪隧道を下る7000系

Recent years
近年 

​※創業以前の社会動向等は記載しておりません。社史の全貌は「千代丘鉄道会社要覧」からご確認ください。

2000

新しい標準。

 2000年、支線で使用されていた旧型電車も老朽化により故障が頻発し、新型車両の導入が望まれました。

 そこで、千代鉄通勤型電車の新しい標準を作るべく、千代鉄5000系が開発されました。

この5000系は運転士・車掌の作業効率化を図るための制御装置である、TSIC(Train System Information Control)を搭載しており、運転士は運転台に備え付けられたパネルから出区点検、運転台関連、主回路関連、補助回路関連、ブレーキ関連、サービス関連の指令を送ることが可能になりました。

その結果、運転台周りの機器やスイッチ類を減少させ、乗務員の負担を軽減することに成功。

この電車の登場により、かざみ野線も終日4両以上での運転されるようになりました。

 

そして、5000系の登場の裏で、5000系電車を含む旧型電車全ての車両が運用を離脱しました。

また、2002年8月17日からは千代鉄ICカード「ChiyoCa」のサービスが開始されました。

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導入された5000系電車

2003

新たな事業体制へ。

2003年、澪岡県はこれまで県内のニュータウン開発と永信急行線の運営を行っていた第三セクター「澪岡県都市開発株式会社」の県保有株を放出することを発表しました。

この動きに対し、澪岡県内での事業展開の実績と鷺沢線の運営実績が買われた当社は、澪岡県との随意契約を結ぶこととなり、2005年4月1日付で全株式を購入し、商号を澪岡県都市開発株式会社から永信急行電鉄に変更。

この子会社化により、澪岡全域の輸送を担う千代丘鉄道と御井方面の輸送を担う永信急行電鉄の協力体制は強化され、千代鉄は澪岡県内のほとんどの地域に路線を伸ばし、地域に寄り添う鉄道としての役割を高めることとなりました。

 

また、その裏では、平成不況により経営が悪化した当社を立て直すため、2000年からホールディングス化を開始

2000年に千代丘千代鉄バス、白雪千代鉄バス、音無千代鉄バスの三社に分割してそれぞれの営業エリアごとにバス事業を譲渡した事を皮切りに、2005年までに鉄道事業を除くグループ企業を分社化、2009年には「千代丘鉄道分割準備会社」と「千代鉄バス分割準備会社」をそれぞれ設立、翌年の2010年には鉄道事業を事業譲渡し、バス事業を千代丘千代鉄バス株式会社に統合した上で千代鉄バス分割準備会社に事業譲渡、1917年から千代丘鉄道として歩み続けた当社は、千代鉄ホールディングス株式会社に商号変更し純粋持株会社に移行しました。

2020

時代に寄り添う。

2020年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行により、千代鉄を始め、多くの鉄道事業者の鉄道路線では利用者が激減し、大きな打撃を受けました。

 

千代鉄でも、多くの路線や列車で利用者数が大幅に減少したために苦しい状況が続いていたが、公共交通機関の使命を果たすため、列車の運行は続けられました。

その中で千代鉄は、本線の優等種別の座席指定化と一部特急の有料化を行う事により、サービスを強化し、時代に対応した新たな輸送形態へ進化しました。

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旧標準色改め、特急色を纏う新型車両52000系電車

2021

Through service

2021年、これまで第一線で活躍してきた主力車両の6000系や7000系は老朽化が進行し、整備費用や使用電力量の面からも非経済的な車両になっていました。

そこで当社は、2020年から旧形式廃車によって不足する車両を補うため、3000系、10000系、2000系、50000系、8000系、9000系、52000系、20000系電車などの新型車両を登場させ、速度とサービスの二つを底上げするとともに走行機器の共通化や回生ブレーキの搭載など、経済性も向上させました。

 

車両増備により、6000系、7000系は全編成が運用から離脱し、2021年8月までに全車が引退。

この旧型電車の引退によって保安装置、性能や保守管理の面などが新型車基準に統一化されたため、千代丘市交通局(千代丘市営地下鉄)と涼川電鉄との3社直通運転に向けての計画が進み始めました。

2023

永信急行の終焉。

2023年、当社と永信急行電鉄は、2024年までに千代丘鉄道が永信急行電鉄を吸収合併することで基本合意しました。

この合併は個別に鉄道事業と不動産賃貸事業を営む両社を経営統合することで、グループ経営の効率改善を実現し、公共交通としての最適な経営の実現することが目的で、千代鉄では、永信急行の千代鉄グループ入り以降、速達性向上や運賃値下げといった鉄道の利便性向上を通じての沿線活性化、駅ナカ拡充などの収益改善に取り組んでいました。

合併に合わせて運賃制度は千代丘鉄道側の運賃へ統一、永信急行電鉄の所有する設備と不動産は千代鉄各社に分配され、これにより澪岡県都市開発から続いた永信急行電鉄という法人格は解散することとなりました。

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永信町駅にて揃う永信急行電鉄2000系と千代鉄2000系

2024-NextCentury

New generation

千代鉄は2020年以降、新型車両3000系電車の導入を皮切りに、Chiyotetsu Brand Up Projectのもと、駅、車両などの設備更新を始め、

街と人を結ぶ鉄道としてさらなるサービス向上に努めています。

100年の歴史を乗せ、今を走る千代丘鉄道。

この鉄路を永久に続かせるために、私たちは走り続けます。

To the next
100 years

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